柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

子規句集(2) 正岡子規

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一日の旅おもしろや萩の原

 

 

(ついたち)ではなく、(いちにち)なのかな?そうじゃないと季重なりになってしまう。

 

旅が面白いなんて当たり前のことも気にせず俳句にしてしまう子規。

 

高浜虚子はこの句を技巧的と言ったそうだが、どのへんに技巧を凝らしているのかよくわからない。

 

これが技術で作った句だったら、技術というものは自分が考えているよりもっと不確かなもののようにも思えるが、開設してくれる人がいるなら是非聞いてみたい。

 

(いちにち)のにしてみたら、その日一日が集約され、更にそれが抽象的な面白かったとすることで、読み手にどんな面白いことがあったのだろうと想像させる。

 

萩の原の是非はよくわからないが、旅を終えて人心地着いた時に目に入ったものなのか、初秋の季節にあった季語だったからなのか。

 

萩は秋の七草の一つらしい。『万葉集』に最も多く詠まれていることからも、古くから日本人に親しまれてきた植物だといえるそうだ。

 

萩をチョイスするのは渋いのかもしれない。楽しい旅だったんだから明るい元気の出る花でもよかったはずだ。

 

そこを当たり前に生えている萩をもってきたところに何か侘び寂びのようなものも感じる。旅と言えば、僕も若い頃は日本中旅をしたものだが、その際に季節を楽しんだり、季節のものを愛でたりすることは無かった。

 

主にやったいたのがアニメの聖地巡礼で、アニメに出てくる建物や風景をカットにあわせて写真を撮っていたのだが、子規にとっての江ノ島の旅は友と旅をする、自分は苦しくはあっても楽しいものだったのだろう。

 

つまり同じ友と旅をした事のあるという経験から僕にだって俳句が作れるはずである。

 

今はもう思い出さないと旅した時の記憶は思い出せないが、その方が醸造されて澱が底のほうに溜まって良い感じになっているかもしれない。

 

と思ったけど特に良い句は湧いてこない。いつになったらこの向き合うのが恐くなくなるのだろうか。

 

夏井先生は俳句に感性やセンスは必要ないと言っていたが、一番重要な続けるという筋力を保つのが普通の人には出来ないのだと思う。

 

それに人間はどこか美味しい所だけをつまみたいものだ。出来たものが出来なくなったのなら出来るようになるまで待つのが僕は一番いいと思う。

 

そうしないと苦しくて仕方ない。別にプロじゃないんだから好きな時に好きなことをしていいと思う。

 

その時、俳句は好きじゃなくなっただけなんだ。

 

また好きになるにはなにか縁のようなものがないといけないと思うし、そういう物があるからこそ努力も出来るというものだ。

 

勝手に修行だと思って苦しみ続けるのは馬鹿らしい。

 

でも続けた者だからこそある繋がりみたいなものには憧れる。

 

句会に出てみたいとも思うんだが、会費がバカ高いのを見て断念してしまった。

 

やっぱり田舎では俳句人口自体が少ないのだろうか。そうなってくるとオンライン句会だが、そっちにもやっぱり勇気がいる。

 

バトル形式にして優劣を決めたがる人もいるし、もっとゆったりとした句会に参加してみたい。

 

 

祇園清水冬枯もなし東山

 

これは破調なのだろうか?いや上五が字余りになっているだけか。

 

祇園、清水、東山と京都をここまで強調する訳は何だろう?

 

京都感をずずぃ~と前に押し出したかったのだろうか。

 

冬の東山は冬でも木々が枯れないで青々としているという句なんだろうか。

 

京都には修学旅行と友達との旅行で二度行っているが、どちらも夏に行ったので考えもしなかった。

 

というか、子規の時代には自動車も持っている人は少なかっただろうに、よく旅に出かけるなぁと思う。

 

旅に出るとしたら馬車か歩きしかないんじゃないのか?鉄道が引かれたのもまだだろうし、それでも旅することがブームだったのだろうか。

 

誰もやらない中、修行僧のように子規が旅をしていたとも考えられないし、いや、そうでもないのだろうか。

 

明らかなのは旅をしたからこそ見た風景を俳句に出来るということだ。

 

何もない所からは何も生まれない。自分の中で何かが生まれる時は、必ず経験なり体験が根っこの部分にある。

 

岡田斗司夫はそれを物語化と言っていた。自分が何かを悩んだ先に成果を上げられたとき、そこに「あぁこうやったから成功したんだ」と物語を作るのが人間だと。

 

その瞬間が一番人間にとってこの世界を面白がれる方法だと言っていたが、つまりは成功しない限り何をやっていても無駄になってしまうかも知れない。

 

成功したのだからその無駄だと思ってきたことに意味と価値が生まれるということだ。結局闇雲を進んでいくしかない。

 

自分にとっての正解への道は自分で切り開かなくては見えてこないのだから。こうして偉人の句を勉強していることにも意味が見出せる日が来るのだろうか。

 

その句の成り立ちを調べても出てこないものもあるし、なかなかに勉強になっている気がしない。

 

とりあえず子規ほどのものが、京都三大押しをしても句として成り立ち、それを高浜虚子が選んだという事実は知ることが出来た。

 

でも三個も京都のものを取り入れて一つの句が成り立っているって、それはやっぱり京都の度量の深さから成るものだと思う。

 

日本で京都という町はちょっと異常なくらい持ち上げられている。京都人は性格が悪いことも有名だし、敷居を高くしてブランド意識を高めているんだろうけど、そこに侘び寂びや季節を愛でるような感性は備わっているのだろうか。

 

価値ばかりが高まっているが、それは町のお陰であって個人個人の品位ではない。

 

むしろ個々に分けた時は京都人というだけで怪訝な顔をする人もいる。

 

プラスにもマイナスにもイメージが先行することはよくないことだ。

 

その点、栃木の土地の価値はマイナスのストップ高にいるので、外へ出る時は常に下手に出ることを考える。

 

それもいいことなのか悪いことなのか。いや、悪いことだな(笑)

 

でも自分の郷土に魅力がないなら他の土地に行った時に、そこの魅力を十分に判定できるというもの。

 

だから他人の良い所を探して俳句を作っていきたいものだ。

 

 

あたたかな雨がふるなり枯葎

 

 

あたたかな雨だけど、季語が枯葎なので冬の句だ。

 

枯れ葎ってあれか、川岸とかに生えているごみのような枯れた伸びた草。

 

あたたかな雨っていいよね!雨に温度を感じる中で、冷たい雨は想像しやすいけど、雨がなんだかあったかいような気がするというのは、とても感性が豊かな感じがする。

 

雨だけでなく少し光が混ざっているのではないかとも想像がいく。

 

それも梅雨や夏の雨ではなく冬の雨をあたたかなと言っている辺りが、希望とか温もりを感じる。枯れ葎のチョイスも侘び寂びが効いているのだろうか。

 

皆が名前は知らないけど、当たり前のようにそこに生えている植物に焦点を当てたり、元気なものと衰えているものをかけ合わせたりすることで侘び寂びが、なんとなく見えてきたかもしれない。

 

今日はちょうど木曜日でプレバトがやるので、侘び寂びを意識した句を作れたら作ってみようかな。

 

ただ俳句を作るだけで精一杯の今の自分に、そんな芸当が出来るかは不安だ。

 

そうなってくると侘び寂びを感じる植物なり状況なりを把握しておく必要があるな。

 

物が豊かな現代で侘び寂びが残っているかは少し疑問だが。

 

自分の根っこにある星野立子のようにわかりやすい句を作ることを基に、子規のような侘び寂びをエッセンスとして入れ込む。

 

口ではそれを取り合わせるのは簡単なことだがやってみたら挫折もするんだろうなぁ。ようは自分に世界はどう見えているのかが重要なんだ。

 

この世界は汚いと思う。それでもいい部分もちょっとは残っていると思う。

 

そのちょっとの良い所を探すなら、良いものを収集することに長けている僕は、フルポン村上のように半径5メートルの俳句を作る方が良いのかもしれない。

 

幻想的な風景とかを書こうとするとどうにも無理が出る。だったら志らくさんのように偉人、それも宮沢賢治を題材にした句を作ってみるのもいいかもしれない。

 

やってみたいことはたくさんがるが、出来ることは少ない。やっぱり褒められるのが一番ためになるんだよなぁ。

 

そのためには褒められる句を作らないといけないというジレンマ。良い俳句を作ろうとするから無理が出るのだろうか。

 

にしても、学校で俳句の勉強ってしてこなかったな。作れたら帰っていいよ~的な感じのはあった気がしたけど、俳句の成り立ちとか、そもそも季語なんて習わなかった気がする。

 

高校になってお~いお茶に投降した時も、別に授業でやったわけではなかったように思う。

 

中学の時は短歌だったったし、本当にプレバト見て俳句始めたと言っても過言ではないな。

 

でも少しでも評価されたのがあったから自分の中に引っ掛かりが出来たわけで、それは作文を書いてその後物語が書きたくなったのによく似ている。

子規句集 正岡子規

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正岡子規

 

 

茶の花や利休の像を床の上

 

高浜虚子選の子規句集の最初に書いてある句。

 

作られたのは明治二十年。

 

この年に書いてある句は一つだけなので上手い出来のものは少なかったのだろうか。

 

季語の茶の花と侘び寂び、茶道の茶聖でも有名な千利休の像が出てくる句。茶の花という句に対して千利休と来たら、マッチングは最高になる。千利休の像を床の上に飾っていた子規は裕福な家庭だったのが分かる。

 

俳句の天才、子規でも憧れがあったのだろう。利休の俳句がどんなものかは知らないが、侘び寂びを極めた人の俳句となれば凄いに違いない。

 

と思ったら「千利休 俳句」で調べても作品が出てこない。ってことは利休は俳句を嗜まなかったのかな?

 

ということは子規は侘び寂びの心を継承して侘び寂びの世界を俳句で表現したのかな。

 

子規が俳句ならばそれが出来ると考えたなら、偉人の隙を突いて上回ってやろうという野心があったのだろうか。

 

僕は作品を書く時、初めは憧れる人と同じ景色が見たいと思って、創作を始めたが、遥か高みを見ながら創作をするのはモチベーションが保てない。

 

むしろ、駄作を見て、「なんだ、こんな作品が世に出てるなら自分でも出来るじゃないか、むしろこんな作品よりかはマシな作品が書ける」と思ってモチベーションを保つことが多い。

 

大抵はクソアニメを見て、こんな設定あり得ない、こんなキャラクターの気持ちの揺れ動き方はリアルじゃない、もっと適切な展開、もっと適切なセリフがあるはずだと思って、自分なりの自分が納得する世界を作り上げる。

 

不純だが、創作というのはそういう憤りから生まれてくるものだと思う。

 

創作をする人は須らく自己顕示欲の塊であって、承認欲求に飢えている。

 

自分の作り出した世界こそが正しいんだと思っている傲慢な人も多いはずだ。ただし、作られた世界には必ず矛盾が生じる。

 

ファンタジーだったらファンタジー警察がいるし、SFだったらSF警察がいる。

 

そういう物がいる中で、極めて短い言葉・文字数で表現される俳句は事実のみを伝えられる究極の表現方法だと思う。

 

この句の矛盾というか作為的なところは、茶の花と利休の像とを組み合わせたところにあるが、そこを事実であるかどうか突っ込んでも仕方のないことではある。

 

突っ込むとすれば、利休の像を床の上に飾っていた子規(の家)は本当だとしても、そこに茶の花があったかどうかは疑問が残る。

 

しかし、今のように四季折々の歳時記があったわけではない時代に、季節を意識し、床の間に利休の像を飾り、その取り合わせとして、茶の花を生けていたことも考えられる。

 

そうなってくると、季節というものとの距離感の近さに情緒を感じる。

 

昔はそれが当たり前で、当たり前の光景だったというのだったら、日本人は便利さと引き換えに多大なものを失ってしまったのだと思う。

 

季節を大事にする生き方を自分なりに初めて見るのもいいかもしれない。

 

 

梅雨晴れやところどころに蟻の道

 

 

子規らしい可愛らしい朗らかな句。

 

梅雨晴れで空を見るのではなく、地面を見て元気にせっせと働く蟻の行列を眺めているなんとも頬が緩んでしまう句だな。

 

蟻の行列を眺められるくらい心にも時間にも余裕を持ちたいものだ。

 

漱石川端康成も金に不自由しないから創作という最大限の暇つぶしが出来たのだと思うが、子規もその類の人なのだろうか。

 

坂の上の雲ではたしか藩士の家の長男に生まれて、病床に臥せった後でも、妹の手厚い看病をされていた描写があったから、比較的家は裕福な方だったのだろう。

 

そうなってくると、俳句はただの嗜みかとがっかりする気持ちがあるが、生活の心配がなかったから過去その自由でありのままを映した俳句が作れたのだろうか。

 

倫理の勉強をしていても、偉人たちの経歴を見ると、対外有名大学を首席で卒業しただの、親も学者で裕福な家庭に生まれて自分も自由に勉強をしたという人が多いが、苦学生からは優秀な学者や創作者は生まれにくいのだろうか。

 

豊富な教材を与えられて時間の許す限り勉強出来た裕福な家の子と、働きながら寝る間も惜しんで勉学に励んだ苦学生とでは、明らかに勉強量に開きがある。

 

それでも苦学生にはハングリー精神が宿る分、その渇きを潤すには多大なものを有する。

 

でもテレビで未だにハングリーを売りにしている人達を見ると、本当に飢えているのか疑問が湧いてくる。

 

百万もする着物を毎回仕立ててくる梅沢さんとか、売れても尚モテたいと言いまわる芸人を見ても、それってビジネスハングリーなんじゃないのかと思う。

 

満たされない思いを持ち続けるというのは難しいことだ。人間どこかで満足してしまう。

 

その点、宮崎駿は満たされないように鈴木敏夫が画策しているように見受けられるが、それも風立ちぬを作ったことで駿自身、自分なりに満足したと言っていた。

 

ある種、使命感みたいなものがない限り、創作活動は続けられないと思う。ジブリのように会社ぐるみで作品を作るなら、

 

社員の人生がかかっているから、やらなきゃいけないと思うだろうが、一人でやっている創作は、本当に自分のやる気次第なところがある。

 

どうモチベーションを保っていくか、どう精神衛生を保っていくかが非常にネックなところで、僕はついまだ書けないなと思ったら書かないで寝かしてしまう性質がある。

 

そうなってくると次に書く時に、優れた文が書けるか書けなくなっているか、試すのが恐くなってしまってつい延び延びになってしまう。

 

この問題は永遠のテーマだ。書いてしまえば楽しいんだが、それに比べて緊張のベクトルが強すぎる。何故自分にそれほど期待しているのかはわからないが、自分の本領を発揮できない無力さを感じるのが嫌なんだ。

 

こうして言葉にしてみると、少しすっきりする。そうやって運任せにするより、技術を着けていくことを考えなければならないとも思うのだが、自分の創作の一番楽しいのは天性の勘を頼りにやっていくことなんだよなぁ。

 

技術を着けるのが楽しい、メキメ技術がついているという実感があるというなら、そっち方面にも岐路が出来るのだろうけど、闇雲を進んでいるようでそれは難しい。

 

今はまだ、勉強というものはもっと自然的なもので、やってきた量の数%、少しずつ発揮できるものだと思ってしまうのだった。

 

 

青々と障子にうつるばせを(芭蕉)哉(かな)

 

子規が江ノ島旅行に行って初めて喀血した時の句らしい。親友の秋山真之と徒歩で江ノ島まで旅行しに行った時に、病弱なのに無理をした子規は喀血した。

 

その時に治療のために体を休めた診療所で見た光景なのだろうか。

 

芭蕉というのはバナナの木のことらしい。水芭蕉とかもあるし、もっと小さな花なのかと思っていた。

 

江ノ島辺りでは芭蕉が植わっているくらい暖かい気候なのだろうか。よくわからん。あんまり暖かいイメージはないが。

 

多分昔からリゾート地ではあっただろうから、バナナの木としてそこらに植えてあっても不思議ではないのだろう。

 

そんな元気で明るいバナナのイメージの芭蕉が障子越しに青々と影を落とし、それを布団の上で見ているという句としたら、情緒がヤバイ。

 

侘び寂びの度合いが命の儚さと掛け合わさって、簡単に良い句と言えない程に、気の毒な感じが出ていて、宮崎駿のエロとちょっと似ている。

 

この句の良さを分かってしまうとなんだか罪悪感が湧いてくるように、良いと気安くいってはいけない荘重な感じがある。

 

子規のありのままを映す写生句にプラスして、命の儚さが映る侘び寂びの世界。

 

僕程度のものでもそのくらいのことはわかるから、頭のいい人ならもっと吸収することがあるのだろう。

 

この詠嘆で終わる感じも、良いよな。障子を開けて堂々と鑑賞することも出来ないところに、芭蕉かなとすることで、はっきりと捉えていない想像の部分が生まれる。

 

何故想像しなければならないのか、何故障子越しにしか見れないのかと読み手に考えさせることも出来る。

 

そういうところに容易くない深みを見ることが出来る。インターネットで調べることが出来る時代でよかった。一人では解読できない類の作品だ。

 

正岡子規の人生は坂の上の雲(一)にそのほぼ全てが書いてあるが、短い人生の割に印象に残るキャラクターで、三人の主人公のうちの一人を担っている。

 

(ニ)以降は多分登場しないと思うが、読者よりの主人公秋山真之の心の中で子規は生き続けていくんだろうと思う。

 

子規が短い人生の中で作った俳句は2万を越えるそうで、俳句を作るために生まれてきたとも言えるかもしれない。

 

その中から高浜虚子が選んだ何百という名句を勉強することで、自分の中の子規という存在を確立させ、尊敬できる人なのか見極めていきたい。

 

世の中には尊敬すべき人なのにその人が何をやったのか知らない人が数多くいる。

 

それだけを学ぶだけでも、人生を費やすと思うし、それだけでも足りないと思うから、自分が知れるのは縁のあった人だけなのだろう。

 

自分にとって縁のある人なら、柳真佐域というオリジナルを作る上で、構成要素の一つとして自分の中に取り入れたい。

中村草田男

冬の水一枝の影も欺かず

 

 

冬の澄み切った鏡のような水(溜まり)に木の枝が少しも偽ることもせずありのまま写っているという句か。

 

冬と言うとつい雪景色なんかが浮かんでしまうが、水に着眼点を落としたのは凄く良いな。冬は空気が澄んでいていて、とても好きな季節だ。

 

寒いし乾燥するしで、身体にとっては良くないことばかりだけど、その分身体や熱を感じやすくなって、生命の儚さを感じることが出来る。

 

夏の鬱陶しい熱さに生命の満ち満ちた感じも嫌いではないが、冬の音までが澄んでいて、生命感が失われた世界は、どこかこの世のものとは思えない静寂さがある。

 

引き算の美学なのかもしれない。

 

友達も減ってますます外へ出ることが少なくなってしまったので、特に冬はこれからもっと出不精になるだろう。

 

車を売ってバイクを買ったら、一人旅をしてみたいが、実際そんな余裕はないだろう。

 

吟行の旅に出てみたい気持ちはある。独りでいると感覚が研ぎ澄まされ、風景もいつもより鮮明に見えてくる。

 

日常を離れることは、心にも良い気がする。この句は梅沢さんが村上にいう、身近な半径5メートルの俳句だ。

 

こういう日常のちょっとしたところに感性がいく句にも、やられたと思うのと同時に、そんな澄んだ感性は自分にはないなと落胆する。

 

いつからこんなに濁ってしまったのだろう。まだ中学生の頃にはもっと澄んだ瞳で世界を見ていた気がする。

 

きっと高校生の学校帰りの駅で電車を待っている時に、僕の感性は死んでいったのだろう。

 

なんの特別性もなく、何の意外性もなく、平凡で自分は何処にでもいる人間の一人なんだと思った時に、自分の中の純粋な部分が抜け落ちてしまったのだろう。

 

夏の熱さを冬の寒さに忘れ、冬の寒さを夏の暑さに忘れるそれを、当たり前だと思ってしまったなんてつまらない感性。

 

斜に構えて、自分を喜ばせてくれるものだけを探し、気に入らなければ貶し、友人には裏切られ、孤独に耐え、暗黒に染まった青春に、すっかり美しいものは消えてしまった。

 

せめて共学だったら、クラスの女子にドギマギできる青春もあったかもしれないが、せっかくできた彼女にも勝手に裏切られたと思って離れてしまった。

 

今やテレビは一家に人数分(もしくはモニターが)あり、スマホも一人一台あって、果てしない世界と簡単に繋がれるようになってしまって、世界の神秘性はインスタジェニックになるかどうかという安っぽい格に成り下がってしまった。

 

もっと世界というのは謎めいていて果てしなく、それでいて豊かなものだと思っていたが、実際は理不尽であって冷たく、何枚ものレイヤーの奥にあって、時たま美しく見える時がある。

 

いや、美しく見ている人がいるのが正しいか。視力がどんどん悪くなっていくように、知れば知るほど、自分の世界は醜いもので、嫌いになっていく。

 

自分に出来ることなんて大人物に比べたら、何一つないに等しい。それでも人生は続いていくから、僕は自分に出来ることだけをしていくしかない。

 

そのなかでどれだけ自分を騙せるかと考えてしまうのは、やはり瞳が濁っている証拠なんだ。

 

 

万緑の中や吾子の歯生え初むる

 

 

万緑万能説キターか。万緑とか新緑という大自然のキーワードを使えば大概スケールの大きさが出る法則。

 

その中でも、万緑と比較して、我が子の生え始める乳歯に焦点を当てるのは、法則をよく理解して、上手い対比が出来ているように思う。

 

青々とした木々の木漏れ日の中を、幼児になった我が子と一緒に歩くか抱きかかえているかという時期に、生え始まった乳歯に我が子の成長を感じるという、なんとも朗らかに癒される句だ。

 

僕はまだ親になった経験はなく、これからそれが望めるかどうかも望み薄だが、一生に一度は自分の子供を自分で育ててみたいと思っている。

 

もしそれが叶うなら、今の社会のシステムの中では、きっと育てることは出来ないし、貧困の中に生まれて、その子が生まれてこなきゃよかったと思ってしまうことがあるかも知れないと思うと、無責任に子供は作れない。

 

晩婚化、生涯未婚率が上がっている昨今で、子供を産み育てることは、とてもセンシティブでリスクを伴う大仕事だ。

 

自分や妻となる人に、そんな多大な責任を負わせること、それを支えてくれる家族の保証がない限り、おっかなくて前向きには考えられない。

 

そういうことも考えずに、いや、考えていたのだろうかと疑問がまず来るが、昔の人は子供を産むことに躊躇がないように思う。

 

僕の親の世代でも、三人子供を作っている家庭も多く、一人っ子だった家庭の方が圧倒的に少なかった。

 

それがこの20年くらいで、価値観が激変してしまって、子供を作るというのは特別に人生の進むレールがあったとして、そこを順調に行っている者にしか許されない行為になってしまった。

 

この句のようなあたたかな光景は、誰もが望みこそすれ、容易くは叶わないものになってしまった。自然の中で子供をすくすくと育てることも難しい。

 

レールから逸れてしまった者には、自愛を育むしかないのだろうか。

 

弱ってしまった自分のような人でも、人並みの幸せを感じたいと思っても、その人並のハードルが高すぎて、目指す気力さえ湧かない。

 

昔は家族全員で幸せを共有していたが、今は自分だけがまず幸せでいなければ、意味がない、他人を幸せにする余裕もないと、考えてしまう。

 

 

玫瑰(はまなす)や今も沖には未来あり

 

浜茄子と沖(海)にある未来の取り合わせの句だが、浜茄子やで一度場面を切って強調する訳がよくわからない。

 

沖(浜辺)に咲く浜茄子が未来ある沖との着かず離れずの関係が良いのかもしれないが、取り合わせの句はセンスが問われる感性の句なので、第一印象で良い!と思うか、そうか?と思うかで自分の中の評価が固定されてしまう。

 

この第一印象は根が深く、疑問を持ってしまった時は説明されても疑念が拭えないことが多い。

 

今も沖には未来ありのフレーズにこの句の良さに比重があり、それに沿ったもの、もしくは対比するものを取り合わせることで、全体のアシンメトリーな感じが出て良く感じるのだろうか。

 

この類の句は、夏井先生の解説を聞いても、納得を得ることは少ない。

 

これは対比になってしまうが、フジモンの「恐竜のほろびた理由ソーダ水」の句も、二つの意外な取り合わせから成る句である。

 

浜茄子と沖とはもっと近いものではあるが、沖の未来と浜茄子とでは、海に近いと言うだけで、よく共通項が見出せない。浜茄子に沖の未来を感じるというのは、本当に個人の感覚によったものだ。

 

それと補足すると、今も沖には未来あり、とする展望の明るさは、現代では少し感じにくいものかもしれない。

 

沖の未来が明るいということは、海産物が豊富に取れたり、エネルギー資源に期待があるというような、現実にある私たちの問題に直下する事柄であるという、

 

酷く現実的な言ってしまえば夢を感じない、俳句を作る上ではとても重大な要素の欠落である。

 

世界の神秘性、謎は冒険のなくなった現代では、誰もが数値と情報でこの世界を分析できてしまって、そこにロマンは生まれない。

 

それが現代人の面白いものを何でも手近で探してしまう、自分の中の世界を狭めている原因だと思う。

 

インターネットのお陰で、なんでも簡単に比較できてしまう。

 

勇気を出してやってみた一人旅や、海外旅行も、プライスレスはなはずなのに、後になってこう回った方が効率が良かっただの、

 

ツアーで回れるところには制限があるだの、天候に恵まれず最良の瞬間をとらえることが出来なかっただのと、旅に出てからも最高の満足を得られなかったことに、私たちは怯えてしまっている。

 

それは旅に出る前からも付きまとうものであり、旅自体に集中できず、効率を気にしてしまっているのは、旅の本質から離れてしまう。

 

それでも旅を数多くしてきた僕にとって、旅で得られるものは自分の中でとても大切な体験だということが出来る。

 

それは仲間との楽しさの共有だったし、初めての冒険だったりもした。

 

世界は狭まってしまったと言っても、実際旅をしてみると、知らないことは多いし、自分の人生を全部使っても味わいつくせないほど、未知なものはある。

 

それに名前がついてしまっているという残念さはあるが、これからの人達に何が価値あるものなのかと聞かれれば、それは自分だけが体験したものだろうということが分かる。

 

自分のようなどこにでもいるような人の一人でも、自分の親から生まれ、どうやって育てられ、何を見て何を聞いて何を学び、どういう選択をして、何に裏切られてきたのか。

 

そういう物の積み重ねで、自分というオリジナルが存在する。

 

そこにバリューはないのかもしれないが、それは自分だけが決めて、決断をどうするかも決まることが出来る。

 

何も生みだすことの出来なかったつまらない人間かも知れない。

 

それでも自分の周りの人に居ても良いんだと思わせることが出来れば、存在意義はあるのだと思う。

水原秋桜子

高嶺星蚕飼の村は寝づまり

 

蚕飼の村の高い山の上には星が光り、今は朝夕の忙しさも忘れ寝静まっているという句か。

 

昔、母が学校の授業の一環で蚕を飼っていたことがあったらしいのだが、近代化が進んだ現代を生きる僕たちはそういう経験はしてこなかった。

 

母の時代はまだ貧しかったのだろうということが考えられる。貧しい方が世界をもっと感じられたかと考えた時、いや、それよりかは貧しいことに喘いで世界を感じる余裕などなかったのではないかと考えつく。

 

貧しいとは自分よりも裕福に暮らしている者がいるからこそ起きる嫉妬だろうか。

 

梅沢富雄さんの俳句にもたびたび貧しかったころのことが題材に使われる。

 

それもどうしようもない貧困ということではない。自分が自分の生きる道を選んだからこそ成功のために下積んだ貧しさ。

 

本当に貧困だったら、それが風化しない限りは表現する気力も起きないだろう。貧困のままで表現を続け、成功したという人をを聞いたことがない。

 

中にはそういう人もいるのかもしれないが、31年生きていて、貧しさを振り返れるものだけが、それを表現できる余裕を得るのだと思う。

 

僕は現時点で貧困ではないが、そうなってもおかしくない立場にある。

 

障害年金がいつまで出るかわからないし、失業手当は来月で切れる。

 

余裕がなくなった時に人の本性は表れると言うが、この日本という国で、生きていく中で、全く食べれなくて餓死するということは無いように思う。

 

つまりファッション貧乏しか存在しないんじゃないか?

 

最低限のインフラとして通信料が加味されたら、誰もが考えられさえすれば貧困にならずに済むようになる。

 

ただ要は考えさえすればいいというのは、馬鹿には生きられないということにもなる。

 

800万人もいる障碍者、弱者がいる日本で、それらを救出するには、今のシステム自体が古いモデムになっていると思う。

 

精神病を患う人もどんどん増えている。そういう人が生きていくのに、もう蚕を育てて金を得るという小さな商売ですら成り立たない現状に、貧しくはなくても生きづらい世の中になった気がしてならない。

 

誰もが俳句を楽しむ世の中になってもおかしくないはずなのに、どこか逼迫した感じが付きまとい、文化は発展していかない。

 

新しい生き方が求められている。それがベーシックインカムなのかなんなのか、おバカな僕にはわからないが、今できている勉強だけはずっと続けていたいと思う。

 

こんな僕を怠け者だというリョウ君になにか成果を伝えられたら、リョウ君にとって、僕が必要な人間と再認識させられるかもしれないが、そんなの無理だ。

 

自分の身体を第一に考えるなら、関わらないことを決断すべきだし、そんな酷い事を言う人が友達なのかと言われたら自分でも疑問だ。貧しいのは悪なのかもしれない。

 

そうであったら、僕はいつのまにか悪者になっていたんだな。

 

 

冬菊のまとふはおのがひかりのみ

 

 

カッコいい句!纏う光か。

 

冬菊じゃなくてもっと神々しいものだったら良かったのになとちょっぴり思ってしまうのもあるが、冬菊がどこか神々しい形をしているのもあって、この句はこれで完成している。

 

水原秋桜子は何処か天を感じる世界観があるな。

 

自分の色を見つけたらそれを突き進むがいいと思うが、僕にとっての武器は中7に三つの言葉を入れるテクニックがある。

 

そういう武器を何個も持っている方が良いが、自分の武器を何個増やせるかは、気づきや運、巡り合わせしかない。

 

そのために勉強することを止めないし、一句でも多く作ることが求められるが、創作活動というものは先細りになっていくもので、だんだんと自分の足場がなくなっていく。

 

新しいことへの挑戦が出来なくなっていくからだ。自分の武器を持つということは、それにすがるということだ。それは諸刃の剣だし、広く創作をする上では妨げになる。

 

自分の色を見つけた時は、星や星座を見つけたようにラッキーに思うだけにして、それよりも広大に拡がる宇宙を旅することが出来れば、楽しみは続くかもしれない。

 

もうずいぶん前からスランプに入ってしまって、すっかり創作が苦しいものになってしまった。普通に生きている分には、

 

なんら障害に思うことのないもののはずなのに、こうして苦しんでいるのは、自分から苦しみに突き進んでいる気がしてならない。

 

その先に、またあの日のような楽園が待っているなら、辛抱して藪を掻き分けていきたいが、その保証は全くない。

 

日に日に才能というものがなくなっていくなら、(その実感もあるし)僕はいずれ、いや、もう創作が出来なくなっているのかもしれない。

 

かつての偉人達も、その時々に精一杯を出し尽くし、創作に励んでいたから書けていたのだとしたら、怠惰で不真面目で臆病でいれば書けなくなるのも仕方がない。

 

努力をし続けられる人だけが、いっぱしの創作人となれるのだろう。

 

機を待っているようじゃ何も掴めやしない。僕の中のリョウ君が、そんなんじゃダメだと言い続けている。

 

それでもつまらないことは書けないし、書けないと分かるあの瞬間に恐怖しかない。

 

大したものを書いているわけではないはずなのに、自分の中では人生に影響するくらいの大事件で、それを他人にどうこう言われたくはないし、でも自分にストレスをかけることも出来ないでいる。

 

スランプに入ったら足掻いただけ成長が待っているという人がいるが、それほどのものを自分に課せられる自信がない。

 

誰かの指図で創作活動をするのが一番つまらないことだと知っているからだ。

 

冬菊が纏うのが己が光りのみというように、輝ける自分の光でなくては暗い海は渡れない。借り物の光に命を預けられないのだ。

 

最近、もうこのまま書けないのなら、いっそ心中する思いで、何でもやってみる気になってきた。元々持っているものはないのだ。

 

発光する蛍のように、頼りない光でも、この光が灯せる限りは、頑張ってみたいと思う。

 

 

滝落ちて群青世界とどろけり

 

自分では作れもしないのに、句を詠んだ瞬間、やられたと思うのは何故だろう。

 

読めない漢字の答えを書くしていて、考えるのが辛くなって思わず答えを見てしまった時の感覚に似ている。

 

自分の中にあるはずの言葉なのに、それを形にすることが出来なかった悔しさ。

 

それに手が届きそうだったのにと思う自惚れがあるからだ。これくらいの句、自分でも作れる。これくらいの作品、自分でも書ける。ただ巡り合わせが良くなかったんだ。

 

自分には縁がなかっただけで、実力は相違ないはずなんだと思う何と傲り高ぶった考えは、はたしてプラスに働くことはあるのだろうか。

 

僕は作品を書く時のモチベーションの多くに、面白くない作品を読んだ時に、こんなつまらないものが世に出て、自分も含めて金を払う人がいるのかという憤りがある。

 

人間はたとえ自分が面白いものが書けなくても、他人の作品を観た時に、面白くないと思ってしまう自意識がすこぶる高い生き物だし、そういう時、損をした気分になってしまう。

 

僕は長年オタクをやっているから、一般の人より多くの作品に触れる機会があるが、年を追うごとに、自分の見たい作品であるかないかで、作品の評価が決まってしまうときがある。

 

これだよこれを観たかったんだ。そう思う瞬間を求めるのが日に日に強くなり、まどマギやシュタゲを観た時に、

 

これだ!と思う感覚が自分の中に沸き上がり、自分が求めているのは自分が想像だにしなかった結末に行き着くことだと感じた。

 

創作活動をしている時は、まずパソコンの前に座って、真っ白な原稿に向かい、想像を膨らます。

 

自分の書きたい文、書かなくてはならない文を探して、指をタイプしたいままに動かす。

 

そうして白い闇の中を進んでいくことが、何より遣り甲斐を持って、物語を綴る力にする。

 

このキャラは本当はどう動きたいのか。キャラクターが勝手に物語を進行させてくれるような、オカルトはあり得ない。

 

ただ言うべき台詞、起こるべき展開、納まりどころが良い終点があると信じている。

 

これは信仰に近いかもしれない。物語に必要なのは、必然性だけだといっても過言ではない気がする。

 

そういう見えない何かに導かれて僕は創作をしている。ただしその影を見るには、真っ白な原稿を前にしなくてはならない。これは非常に勇気のいることだ。

 

楽しい時は感じなかったが、創作から離れた今、実に勇気のいる作業だということが克明に分かってしまった。

 

自分の中が空っぽなのだと自覚することは、今までの人生の否定になる。

 

今まで積み重ねてきた、困難もあり喜びもあった人生が全く意味のないものだったとはっきりと分かってしまう恐怖。

 

滝落ちて群青世界とどろけり、程度のことも思いつかない自分が情けない。

 

恥ずかしい。恥ずかしさを知ること。それは厳しい創作の道を進むためには必要な気がする。

 

自分の中の自分でも知らない世界を描くために、僕は創作に生涯を捧げたいと思う。

スマートノートー2ー


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無駄遣いが多い方だけど、買い物に後悔したのって少ないんだよな。


バイク買って動かなくなって売ったのは後悔してるけど、ちゃんと整備してくれて、


家まで運んでくれたり、バイクをどうやったらいじれるのか知れたら楽しかったかもしれないが、


いじり方を調べるすら出来なかったから、やっぱり出来ないと思っていることは自分のなかでゼロなんだな。


基本カスタマイズするのは苦手だから、高価なものを買っても手持ち無沙汰で放っぽってしまう。


そう考えると高額なものを買ったとき、その粗みたいなのが見えてしまったとき買ったことを後悔するな。


そうなるとあまり高額なものの買い物はしない方がいいな。


1万円台買い物では外れを感じにくいな。10万円を越えるとちょっと怪しい。


安上がりな人生で良い。それよりかは日々の充実化を図った方がいいかもしれない。


価値のある時間にするなら良い教材を揃えて勉強することだ。


そこから何を思って何を学ぶのか(学んだ気になるのかが)重要だ。


人間忘れてしまうものだから、アウトプットが出来たら、あとは自分の中に堆積していくことを願って本を読みまくる。


自分の書いた物語をクラウドファンディングで金を集めてコミケで売るのはどうだろう。


まず金が集まるほど面白いのか。面白いは人それぞれだけど、読み物として耐えうる出来なのか問題。


色んな人に見てほしい。プロとしての作家でなく同人作家として博をつけたい。


クラウドファンディングの仕組みを知る必要がある。EXODUSにかけあってみるか。


どこが悪いと言われたら心が折れてしまうかもしれないが、ストレスをかけて執筆のモチベーションになればいいか。


頭のいい人の話を聞くのは自分の頭の訓練を怠るのか。


いやでも外部脳として機能してるなら甘えちゃうなぁ。


間違えることを恐れないで自分の意見を持つのは大変なことだぞ。


こういう大変さを乗り越えるから頭のいい人やユニークな人、面白い人が出てくるのかな。


ノートに面白味を追加するって、僕独自の視点があれば良いのかな。


もう一段頭を使って物事の感想を書いてみる。


まずは感想からで良い。それから論理的に良い部分を抽出してみる。


そっか、僕のノートに足んなかったのは面白さか。読んでタメになるとか笑えるとか心がスッとするとかの要素を盛り込めば、もっと読めるものになるはずだ!


いくら論理的な思考が出来るようになるって言っても、毎日ノートを書かなければいけない、


それをまとめてブログにのせなきゃいけないっていうのは容量が多すぎる。


メモをとる癖をつけるのは良いと思うんだが、続かないよぉ。


ダイエットと同じで続けるのが大変。楽しみがもっとないと続かない。


それは評価かもしれないし、システムなのかもしれないが、それが分かるまでは続けるのにリスクがかかりすぎる。


ブログをやっていなければなんとかなるかもしれないけど、今ハマっていることを無しにするのはないな。


リョウ君に損切りされてしまった今だからこそノートを書くべきかもしれない。


もう大事にされないんだったら、他に代わりを見つけても良いだろう。


そうなったら、今度はキハラさんに依存しないように生きないとな。迷惑はかけられない。


でもノートに書くほど思考が言語化出来ないんだよなぁ。

村上鬼城

冬蜂の死にどころなく歩きけり

 

 

冬の蜂の死に場所はないのに歩き回っている様子を句にしたんだな。

 

本来、蜂には死に場所なんて考える感情はないが、それを逆説的な視点でもって見て敢えてそれを表すという手法が使われているのだろう。

 

弱ってもう歩くしか気力がないのか、それでもここが死に場所なんだと決めてしまえる人間性みたいのもない虫の憐れでもあるし、生命や本能のまま生きるものの性を表しているようで、なかなか良い句だと思う。

 

ただ子規や虚子のような圧倒的な感じはあまりしない。

 

それは単に村上鬼城の名前を知らないだけというのもあるし、この句に本当に力が宿っている気がしないからでもある。

 

二人の圧倒的な部分ではなく、村上鬼城の武器はテーマだと思う。

 

生と死を題材にするそれだけで句は一段階上の格に上がる。

 

プレバトで立川志らくさんが一番調子が良かった時、飛ぶ鳥を落とす勢いで書いた「桜隠しキリストめける干したシャツ」を詠んだ時、

 

この人の勢いは何処までも登っていくんだと思ったが、ここで渾身の句を夏井先生にダメ出しをされたことで、一気に才能がしぼんでしまった印象が強い。

 

夏井先生は愛の鞭もあるし、番組として公平に扱わなければならない手前、志らくさんの伸びてきた鼻をポキッと折ってしまったが、志らくさんはトラウマを抱えたに違いない。

 

志らくさんは未だそこから脱しきれず、迷走している。

 

ただ志らくさんの技術は足りないのに上り調子だったのにストップがかかるのは必然だっただろう。

 

勉強しなければならない重圧から、その時に比べて今は格段に出演数が減った。

 

それに比べて口はうるさいが、毎週必ず出てくる梅沢さんのタフネスさと言ったら凄い。

 

結果を出すまで、結果を出しても尚、番組の看板として、出演し続けるのは、東国原英夫さんでも出来ないことだし、最早プレバトが梅沢富雄で持っている番組になってしまった。

 

そんなおっちゃんもたまにはテーマの際立った俳句を作ってほしいものだ。

 

今はまだ我欲が俳句にもろに出ているので、見るに堪えないもの量産している。

 

澄ませるのか、巧みにするのか、高みに行くのか、これらが出来て初めて子規や虚子と並ぶような名人になれると思うが、番組を見ている限りは、足掻き続けて土に塗れた勝利しか道はない気がする。

 

夏井先生の俳句は技術面での指摘が多く、その分強調されてしまってはいるが、ここで写生句や一物仕立ての俳句をポーンと出されたら誰もが驚くだろうし、視聴者はそういう物が見たいと思っている。

 

あとは、「や」や「ごと」ばかりでなく、「けり」とか「なり」みたいな助動詞を使った句を見てみたい。

 

俳句の勉強となると必ずそこは通らなければならないし、番組としては説明するのが難しいところかもしれないが、そこが分かったらもっと俳句は楽しくなると思う。

 

 

鷹のつらきびしく老いて哀れなり

 

 

やっぱりテーマどりが良いな。老いても鷹はカッコいいよね。

 

鷹のカッコよさがあるからこそ、老いてや哀れなんかのマイナスな言葉が入っても、句にシュッとしたカッコよさ、それに老いた鷹という老獪な感じも出て良いと思う。

 

鷹が老いていくのにも常に狩りをして、厳しい弱肉強食の世界を生き抜かなければならない。そこで易くは老えず、自分に厳しく生きたものだけが生き残れる、

 

それでも老いていくしかない哀れな部分を切り取って出来た、子規と虚子の良い所を併せ持つかのような凄みがある。

 

自分や傍目に見た老いを感じなければスルッと出てくる言葉じゃないし、だからこそまぐれではない気がする。

 

俳句は若い頃より、年がいっている方が良い句が書ける気がする。

 

それでも、瑞々しい若さを売りにした句は、若いうちにしか作れないし、若いうちから背伸びして老いを感じる句を書いても白々しくなってしまう。

 

その時に一番思っていることを表すのが一番自然なんだろうな。

 

そうなったら、自分というものをもっと明確にしていかねばならない。

 

何が好きで、何に惹かれ、何を思ったのか。そのために表現することを止めない。

 

自分のありのままを映せなくても、それが5・7・5の17音で形にする方式に乗っ取り、少しでも表現する。

 

その少しが積み重なって、自分なりの句集が出来たり、足跡が残せるのは、自分が生きた証や意味を世界に問うことが出来る。

 

何者かになれない人がほとんどだ。それでも、少しでも良さが宿っているなら、誰かの心に残るような、そんな魂の欠片を分けてあげられる。

 

自分の存在意義を今問われている僕にとっては、作品を残すことだけが、自分がこの世界で生きていることを外に発信できる術だ。

 

調子が悪くなった時には、自分は生きている意味はないんだとまで落ち込ませる創作活動に励むことで、自分は生きている意味がある存在なんだと思わせることは、なんとも危ういところに追いやっている気がする。

 

もっとフラットに自然に取り組めてたらいいと思うのだが、なかなかそれは難しく、こうしてダラダラとブログを書くことで紛らわしている。

 

生きていれば波や谷は必ずやってくるものだ。自分からそれを乗りこなすようになるのは、まだまだ先のように思える。

 

哀れ「なり」と断定する言い方をすることで、自分の意見をしっかり持っているのは、強く自分の個性を出すことにも繋がり、鷹にも負けない強い感想になっている。

 

そういう表現をたった二文字で出来る俳句の奥深さと多様性に、同志として励んでいきたい。

 

 

闘鶏の眼つむれて飼はれけり

 

 

闘鶏とは野蛮な感じがするが、人間が作った文化の一つであるとともに、闘わされているにもかかわらずそこに気高さも感じてしまうヒューマニズムな句だ。

 

闘鶏で闘い、眼の傷ついた軍鶏が、その後も飼い主に飼われているという句だけど、なかなかに荒々しい句で、その前の二句と同様に、生き物の盛りを過ぎて、哀れさを感じる句だ。

 

闘鶏や闘犬をする人に対して、僕みたいな普通の人は、可哀想と思ってしまうのだが、それにはそれの矜持があるのだろうか。

 

自分を鍛えて、格闘技などの大会に出るのではなく、飼っている大事な鶏や犬を闘わせて、負けることもあるだろうに、怪我をして帰ってきたのを見て、心が痛まないんだろうか。

 

ヒューマニズムとは人間のためならその他の全ては消費されるものだと、岡田斗司夫が解説をしていた。

 

そうなったら僕はヒューマニズムを尊重しているのではない位置にいるんだと思う。

 

しかしだったら、人間以外のものに対して愛情を注がなければならないとするのであれば、牛肉や豚肉は食べられなくなる理屈がある。

 

岡田斗司夫はその辺を突っ込まれたくないから自分の理屈を通して、自分はヒューマニズムであるとすると思うのだが、そこまできっぱり割り切れない。

 

甲斐甲斐しく育てた豚や牛の命を断って、肉にして販売してくれる畜産業の皆さんに本当はありがとうございますを言わなければならないが、

 

そういう感傷もなく、ただ精肉コーナーにあるお肉を買って、旨い旨いと言って食べているのは、なんとも世界を当たり前のものとして見ている気がする。

 

せめて、「いただきます」「ごちそうさまでした」をしっかり言って、奪った生命に感謝しなくてはならないのだが、それもする時としない時がある。

 

日々そういう面倒なことを意識しながら生きるべきなのだろうが、そういう機会にも恵まれず、僕はいただきますを言わないで肉を食べ続けるだろう。

 

むしろ、いただきますより乾杯の方が、優先順位が高くなっている気がする。

 

そういう点はヒューマニズムを尊重しているし、結局自分の自己都合によってコロコロと意見を変えているのだろう。

 

主義主張がはっきりしている人に比べ、なんと堕落した生き方だが、これが普通に生きることだと思うし、その反面、僕は普通に生きたかったのだろうかという疑問も生まれてくる。

 

今更手を合わせていただきますというのは気恥ずかしさが勝ってしまって出来ない。

 

自分の主義主張があるわけでもない。ただこういう問題を前にすると、漫然とそのままで良いんだとはいえない違和感も浮かんでくる。

 

ただ、それはその時そう思うだけであって、単にそういうアトラクションに乗っただけなのだということも分かっている。

 

自分が人を躾けるようになったら違うのだろうか。でも、そうなった時、そこから自分の主義を変えていくのではなんとも説得力のない話になってしまう。

 

いただきますを言うのは恋人を前にして、彼女に自分がそう躾けられた良い子なんですと見せつけるためだけのものになるのなら、利得が得られて習慣づくかもしれない。

 

いただきますを言うのに、今のままでは気恥ずかしさから損を感じてしまう。

 

いただきますを言うことで良い子になれたと利得を感じられる良い子であったら、僕はいただきますを言う子になっただろう。

 

しかし、今の時代、いただきますやごちそうさまをしっかりきっちり言う人を見たら、何となく宗教臭く感じてしまう。

 

自分の中に宗教を持つことは、持っていない人に比べて、一段バフをかけた生き方が出来るというのも聞いたことがある。

 

善く生きることを信じるのならば、それは通った方が良い道だと思うし、普通から離れるチャンスでもあると思う。

巴里マカロンの謎 米澤穂信


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ふぅーーーー!!11年ぶりの新刊じゃぁぁぁい!!

 

わくわくが抑えきれない!!

 

相変わらずの名探偵思考(笑)

 

やっぱラノベなんだよなぁ、描き方が。

 

小佐内さん絶対にショートボブだよな。

 

京アニでアニメ化しないかしら。

 

意識高いんだよなこの二人。小佐内さん、知的で不思議な感じがよく出てる。知的とはちょっと違うか。

 

オタクっぽいところが、ギークガールな感じなのか?

 

大人しいくせに押しが強いんだよなw

 

普通にデートなんだよなぁ(笑)当人同士が思ってなくても。スイーツに夢中の小佐内さん、可愛いです。

 

萌えです、でも棘のある萌えです。

 

二名様ですねと言わずお二人様ですねと言うのは郷土の違いなのか?

 

それとも新人だから、二人ですと言った小鳩君に連れて言ってしまっただけというわかりづらいテクニックを使ったのか?

 

フレジエ?オペラ?小鳩君も小佐内さんのせいでお菓子に詳しくなったな。

 

ホントお菓子に対してだけは甘々だよな、小佐内さん。ゲーム脳ラノベ脳があるなミステリ脳もあるよな。

 

ついつい事件が起きたらと想定しておくの。

 

小鳩君ミステリ脳全快だwなにもおかしなところがないって一番あんたが可笑しいよ(笑)

 

そんなに細かく説明しなくて良いから(笑)

 

高いとこから注ごうとしとるww小佐内さんキャワワw

 

おやまぁってあんた(笑)!いいなぁ、良い感じに謎っぽいじゃん!これだよなぁ、これを読みたかったんだ。

 

小佐内さん考えすぎだけど、これが二人が共犯関係になるポイントだよな。

 

誇り高き小市民は最早そうでなくってよ?

 

綿密に計画をたてて一つ一つじっくり味わう。

 

小佐内さんチェス強そう。小佐内さん、自分の計画がスイーツに覆されるなんてなんて(不)幸運w

 

互恵関係ってのが肝だよな。

 

秋季の時はそれで問題がややこしくなった。

 

普通マカロンが増えたなら、ラッキーと言って食べてしまうか、店員さんに言って取り替えて貰うだけで済んでしまうんだがなぁ。

 

ホントバカなんだか頭が良いんだかわかんない(笑)

 

やっぱ洞察力ヤバイんだよなぁww

 

それはない、とそんな変なことをするのはこの二人だけだって思わせる微妙なチョイスにセンスを感じる。

 

でもあまりやり過ぎると違和感がMAXになってしまうので注意しなきゃだな。

 

お互いの能力の高さが分かっているからの疑い(笑)褒めてはいないのか(笑)

 

剣呑って言いたいのね。

 

ぽっけないないってなんだw(笑)

 

外部から持ち込まれたものって考えるか?

 

シャーロキアンだな。普通に考えて何か(誰かが誰かへ)のサプライズ(プレゼント)と思うのが順当じゃないか?

 

ちょっと拗らせすぎだな。転がしたことがあるのか(笑)ボケが二人だと会話が成立しないな。

 

ミステリ脳はあった出来事を箇条書きしておくことから始まりそうだな。

 

ミステリーは前もって提示されていたヒントを皆が忘れてしまうから、トリックが違うだけの言ってしまえば単純な謎も謎として楽しめる。永遠に。

 

この事件ちょっと無理がある感じがするな。

 

小鳩君と小佐内さんのキャラクターに頼りすぎているきらいがある。

 

早々に畳かかってるけど、面白くならないのを察したのかな。それともここからが本領か。

 

事態を考えたら二人が推理して問題を人知れずに解決するのは正しいかもしれない。

 

小市民的にも。小佐内さんに対する偏見っていうかズレがあるからこの関係は長く続いているんだと思う。

 

一致するところが推理の果てにあるからその時だけ二人は同じものを見ることが出来る。

 

まず妻でしょ小鳩君。やっぱり娘か。

 

行き当たりばったりな計画にやっぱりはいらない。

 

小佐内さん大人だな。てっきりスイーツのことで一喝するのかと思った。

 

うーん、オチ微妙wなんかサムくなってきたな…。

 

キャラクター商法の弊害なのか?それとも期間が空いてノリきれないだけなのか?良くないな。

 

意外性も感じない。二人とも習い事してるって上級市民じゃんか!コスモスちゃんは百合なのかい?

 

都会に生かされてるなぁ。

 

あーーー!俺ガイルと同じ現象が出ているーーー!

 

やっぱ小鳩君が変なのは一般人にはわかるんだな。

 

小佐内さんは逆に魅力的に、ミステリアスに見せているが。

 

今度は柔道部がどう関わっているかかな?

 

それともコンピュータ部のデータか何かかな?

 

小佐内さん、頭回りすぎって言ってもその状況ならそう判断するしかなかったってのは知っていれば出来ることをしただけだけど、ここはカッコいいと言っておこう。

 

一度ケチがついてしまうと疑り深くなってしまう。そうだな、小佐内さんは復讐深い人だった。

 

自分を侮った人にはとことん報いを与えるんだ。

 

やっぱりなぁ、面白くならないから早めに切り上げてる気がする。

 

そうそう小佐内さんには真っ黒いところがあるんだ。

 

そういう部分をおぼやないわでカバーしたのか。

 

匙加減の調整が見えちゃったら終わりだよなぁ。

 

ミステリーって犯人がどうとかトリックがどうとか言うより、動機が謎ってこともあるよな。

 

ずぅーーーっと小佐内さんが犯人なんじゃないかって魚の小骨が喉に刺さったような気がしている。

 

わざとだな。ヤバイヤバイ、小佐内さんに復讐されちゃう。

 

今回は(も)ゴールを決めてそこにパスを繋いでシュートする感じだったな。

 

え…でも、そんな…だめよ、小鳩くん。でも…そう?www

 

この巻で終わりにしない決心がつきました。

 

古城コスモス、飲酒か?謎の裏に損得があるよなぁ。

 

そうだよ、それなんだよ。それ以外ここと重なる所はなかった。あとはでっち上げた犯人だけど。

 

ん~ステルス機能が全然なんだが、それは前からなのかな?

 

おいおい、そんな繋げ方ありか。あぁだかマロに繋がるのか。

 

最後に小佐内さんにご褒美があるからここまで貶めていたのか。読み終えました。

 

うん、面白かったよ。でもラノベの域は出てないな。

 

キャラもの商品としては良いと思うし、でも米澤さんが書きたいのってもっと真に迫るものじゃなかったかな。

 

小市民シリーズはこういう路線で行くって決めたのだろうか。

 

はっきり言って物足りない。秋期の時はあんなに鬼気迫るものが書けてたのに。

 

あってもなくても良かったような話の印象だ。

 

冬期ではなく、間を挟んだのは、なにか意味があるのだろうか。

 

このシリーズを終わらせるのがもったいないというだけでないことを切に願う。

 

所謂、外伝だったな。