面白い本なのになぜか読めない現象
自称物書き自称読書家の僕として、最近見過ごせないこの現象について語ってみる。
面白い本がある。面白いと分かっている本がある。それを買う。読む。一節読んで本を閉じる。勢いに任せて続きが読めないというものがある。
そういう本に出会った時、ふと考えてしまう。
この本って本当にそんなに面白いのか?
大人になって、時間の縛りがなく昼も夜もぶっ続けで本を読める環境でなくなっていること。
本、中心ではない生き方をしている時、その本に向き合う時間と時間の質が問われてくる。
そんな中だと読書は、限られた時間の中でする質のいい暇つぶしにしかならない。
どんなに面白い本であっても、本を閉じなければならない環境にあることは、快適な読書ライフを送っていないということだ。
ここで問題を整理すると、本当に面白い本は存在するのか、と本の面白さを100%感じられる環境にあるのかということだ。
前者の問題から話そうと思う。
何故人は面白いと思う本を途中で閉じてしまうのか。
幾つかパターンがあると思う。
面白い、確かに面白いが、面白すぎるからあとで取っておこう。という考え。
あとは、面白い、確かに面白いが、このきりのいいところで終わらせて読了感を楽しもう。という状態。
あとは読んでる感じで、面白さを探っている状態だと思う。
面白くなかったら本を閉じるのは当たり前だが、面白いにもかかわらず続きが読めない状態は、次のようなことが考えられる。
面白いと思ったこの気持ちを大事にしたい。もし続きを読んだ時に、つまらなかったら耐えきれないかもしれない、と。
たくさんの本を読んできて、僕は今この病気にかかっている。
自分の思うとおりのストーリーに沿っているか、もしくはそれを越えてくるかというところで、面白さを判断している。
自分の中のハードルに対して、どのような角度で作品が相対してくるのかを常に探っている状態だ。
最近、面白いと思える本が少なくなってきた。
一文読んだだけで、これはダメな奴だ。と投げてしまうものも多い。
そういう中で、過去の名作なら外れはないだろうと遡るのは当たり前の行為かもしれない。
物語も常に進化し続けているはずだが、なろう小説や、その辺のメジャー処の文を見るに、全然足りないと思ってしまう。
そういう本を、本として買って読んだとき残念に思うのは一種の罪悪感を感じてしまってあまり良くないと思う。
そういうところで、軽く読み飛ばしてしまってもいいという本に関しては、電子書籍でいいやとも思うのだが、電子書籍だと、文章の当たりがさらに軽くなってしまって、自分に残るものがないのだ。
電子書籍と紙媒体の書籍の違いは、感覚の違いかもしれないが、物質としてスピノザのような、オーラを感じるものとの違いが必ずあると思う。
少ない持ち金で、取捨選択をしなければいけない身の上として、常に当たりを引き続ける人生で在りたいと思う。
では、後者の読書環境についてについて。
読書をするうえで一番いいのは、一冊誰にも邪魔されず、本を閉じることなく読み切ってしまうというものだ。
もちろんそれは、作者の意図を探る時間を含めた方が良いのではという方もいるのかもしれないが、それを含めても、何にも邪魔されず本と向き合うということには変わりがない。
御飯を食べながらさっきのトリックはこういう仕組みなのかなとか、あの場面であのセリフが入るのはこういう理由があるんだろうと考える時間も、読書の時間に含まれると思うが、
その時間を、普段の生活の中でやっている時点で、その純度は下がってくる。
故に一日で読み切ってしまう、読み切った後に感想を考え、解釈をしていくことが、もっとも本の為になると考える。
読書環境を整えるというのは、結構容易ではない。
本来暇つぶしに本は読むべきではない。
本を書いている身として、一日のうちに書いた分はその度に読み切ってほしいと思う。
それは1話だったり、1節だったりするのだけど、
その時のテンションで書いたものは、その時のテンションで読んでほしいものだ。
読書をする人なら、ほとんどの人がそうだと思うが、1節もしくは、ページの終わりで、「。」で終わっている時(次のページの頭から文章が始まる)、に栞を挟んで本を閉じる。
前者では構わないが、後者では作者の意図を途中で断ち切ることになる。
それまでの勢いも断ち切ることになる。
そういうのを僕は失礼だと思ってしまうのです。
美味しいものは熱々のうちにという心持ですね。
小説を読むにあたって、作者の見ている世界や視点を共感するというときに、途中で目を反らすことはあってはならないと、僕は思います。
なので隙間時間に本を読むことはその本の100%の力を発揮しないままに読み終えて、あんまりおもしろくなかったなと評価を下してしまうと思います。
酔っぱらっているので、今日はこのくらいで。