西洋の眼 日本の眼 「間」の感覚
いや~~~~~~~~~!!!クソつまんなかった!!!
頭が霞みがかるくらい言っていることが当然すぎて、自分はなぜこんな評論を呼んでしまっているんだろう(単元なので仕方ない)と思ってしまった。
結論部も薄いし、結局タイトル回収の「間」については、日本人が使う感じの中で、「間」という言葉がよく使われていて、
それは日本人が、外や内の境界を意識する空「間」を重んじる民族だからって、落語みたいなオチで締めくくる辺り、才能を微塵も感じなかった。
いろんな事実から日本人は凄い、日本人は面白いを書きたかったんだろうけど、長々と説明する割に、興味を引く部分はなく、
こういう事実がありますだから皆さんそう思ってくださいという自己中心的な評論で読んでいて苦痛以外の何物でもなかった。
雑学としては日本の浮世絵や海外の都市風景の絵画の知識が出てきて、へぇ~ほぉ~んふ~んて感じで勉強になったけど、
そこからの発展もなく、ただただ自分の論を固めるための道具でしかなく、評論家として非常にいやらしい手法をとっていて好感が持てない。
この人は何がしたかったんだろう。このことを研究して、どう人類に貢献したかったんだろう。
貢献したいという気持ちよりも、単に自分の調べたことのピースがパチパチと組み合わさったから、評論めいたものに仕上げてしまったような、
あってもなくても別に誰も困らないし、敢えて調べるなら誰でも思いつくような、わざわざ教科書に載せて全国の高校生に向けて読んでもらうようなものでは決してない。
あるとすれば、雑学の部分で、海外の絵画作品と日本浮世絵師の作品の自然と、建物を描く違いなんかが薄く興味のアンテナが立ったが、
海外の画家でもモネなんか自然を書いているし、必ずしも筆者の言っていることが当てはまるとは思えない。
有名な画家をあげつらえて、どうだ俺の評論は当たっているだろうってそりゃ当たってるだろうよそういう風に論を組み立ててるんだから。そりゃそういう説もあるよっていう域を出ないし、
もっと『「間」の感覚』なんて題材にするんだったら、そっちをメインにして評論して欲しかった。
順序的にいくと、日本と西欧文化で、自然に対する向き合い方の違いから始まって、それが絵画に落とし込んだ時に、海外が切り花を題材にしているなか、
日本では自然全体の中に草花が息づいているというところに行き、それが建築物に対しても、内と外との境界の違いがある、
日本人は自然を愛したから外と内の境界の曖昧な軒下のような部分を作って自然を愛し、海外では家の中ですら土足で入る粗野なところがある、
と日本人は清らかで自然を愛で家の中ですら境界を設けて「間」が分かる粋な人どすねぇと、京都人6年目くらいの皮肉を書いたのがこの評論だ。
潔くないし、遠回しすぎるし、なにより面白くない。
こういう面白くない評論があるから、つまんなくて学生が本を読まなくなるんだよ。悪やわぁ。
こういう人が権威をもって学生に指導していると思うとやるせなくなる。
自分がつまらない人間だと理解している方がまだマシだし、こういう人はこれこそが評論だと思っているに違いない。
下手な小説を読んでいる方がまだマシだった。知識がある分、なお性が悪い。
物書きとして読んでもらう人のために楽しませるという気概が一ミリも感じず、それがないということは、こういう分でも一定層の人達が喜んで読んでいるという絶望があるということだ。
この程度の文でも教科書に載せてしまえるような癒着と忖度があることが分かる。教養の部分で、散りばめられら浮世絵などのファクターがあれば、あとは書く人物の権威でどうとでもなってしまうのか。
教科書という学術書が、エンターテイメントである必要はないが、学生の興味をそぐものであってはならないと思う。
こんなにつまらない本を書く人でものうのうと生きているのを見ると、腹が立って仕方がない。しかも、今まで調べた文献が、自分の足で調べたような形跡もない。
あるにしてもそれを書かねば説得力は生まれない。この人はこのままで評論を続けられるとでも思っているのだろうか。
甚だ疑問だ。説教くさいなら「水の東西」の方が、自分の意見をしっかり持っていて、きちんと説教が出来ていた。今回の『「間」の感覚』はその下位互換にすらならない。
『「間」の感覚」』も読者に「間」の感覚を委ねていて、自分の考える日本人としても「間」みたいな強烈なメッセージも感じなかった。
味が濃いのが良いわけではない。しかし、自分が本当にいたことくらい強いメッセージ性をもって伝えるべきだ。
それを猪口才な小手先だけの技法で煙に巻いて得たものが曖昧化してしまう。
この評論を読んで若者にどう思ってほしいと思わせるだけが評論でないというなら、捨て石の役割は果たしているのかもしれない。
学問において必要悪の存在など不要だと僕は思う。