柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

旅学的な文体 ~木を伐る人/植える人~ 赤坂憲雄

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あ~~~~~~~~~~~~~~嫌いやわぁ!!!

 

自然を大事にするなら木を伐るなとは言わないふりをして、現代の人間の木に対する向き合い方を、宮沢賢治の『種山ヶ原の夜』と縄文時代の三内丸山の遺跡を通じて、

 

クソ説教を垂れる、だからなんですか、そんなこと言って世界が変わると思っているんですかという、クソ評論を長々と訊いたわけだが、

 

だったら人間が木を伐る生活をやめればいいわけで、そんなもんVRの世界が発達して、人間が無限とも言える仮想空間を手に入れてその中でデータとしてやり取りすれば、

 

多くの森林を伐らずに済むようになるし、時代に逆行して、あの頃は良かった、あの頃に皆還ろうなんて前時代的なこと言われても、

 

もう進んでしまった時間の針は止められないし、結局原生林を伐って、今の人間が住みやすいように植樹したことには変わりないんだから、

 

自然を大事になんていても、人間にとっての自然であることは変わりないし、だったら、あんたは家も建てずに毎日テント暮らしでもしてるんですかと聞きたくなる。

 

人間が生きていく上では木を伐っていかねばならないし、伐らずに済ましたいなら伐らなくても社会が回る方法を思いつかねばならない。

 

それをまぁ人間の罪がこんなにありますよ、昔の人はそれでも木を植えたりして森を守ったんです。賢治も言っているでしょう。森を守ることは大事なことなんですって、論を固めているっぷりが気に食わない。

 

たしかに山を走っても、禿山になっているところを見ると心が痛むし、この道路を走らせるために、森を切り開いているんだなとか思うけど、だったら子供の修学旅行は切り開かれた森へ行くとか、汚染された海へ行くとか、

 

そういう実のある学習にするべきだし、神社仏閣だって森を切り開いて健在にしたから成り立っているのであって、森を切り開くことは人間が人間足る証拠だと思う。

 

もののけ姫でも、最後はたたら場の人達はまたコリもせずサンに了承を得て森を切り開くことを決めているし、人間が人間らしく生きるには自然を破壊していかねばならない。自然という超常のものを分解し、

 

神という存在が現れるまで人間は自然を破壊することを止めない。それに人間が生きていくなら、家は建てるし、木は机や柱にするし、

 

見たことは無いが、紙にだってしなければならない。それをなんとかするのは、戻すことではなくて関わらないように、資料は全てデジタル化することだ。

 

人間が現物主義の紙媒体にこだわっているからくだらない本でも何万部と刷られるし、僕自身つまらない読み味を求めて紙媒体の本を買う。

 

自然を破壊したくないなら関与しないことが第一だと思う。自然に頼らなくても生きていけるということになれば、人間は人間だけの社会でいきることになる。

 

それを足枷しているは、田舎の人間であって、つまらないことにこだわる古い人間だ。本気で自然のことを考えてるのなら、自然に頼る生活をするべきではない。

 

それでも人口は増えていくばかりだし、いずれは地球に収まらなくて大戦争が起こるか、地球外に移住する案も出てくると思う。

 

ただ逆行だけはしない。一部のマイノリティーが田舎帰りする人も出てくるとは思うが、それがどう足掻いても人類の意志にはなりえない。

 

何も得るものがない評論だった。こういう人は自分の妄想の世界にいつまでも浸りながら、荒み切った現実を見て落胆し続けてほしい。

 

欲しいのは変化ではなく結果だ。日本古来の原生林なんてもう存在しないんだから、この星は人間が生きやすいようにテラフォーミングしていくのは上等な手段だろう。還るべき自然はもうないのだ。

 

そうなると中原中也のような詩的な世界も、いずれは映えの世界になってしまって、情緒とか風流は肌で感じるものではなくて、眼で見えて作りての意志を感じて、編集した苦労がにじみ出るものに変わっていくんだろう。

 

そうやって文化は誰にでもわかりやすいものになり、結果文明は発展する。