夢十夜 ~一夜・六夜~ 夏目漱石
~一夜~
あ~凄い良かったんだけど、なんだろう、最後のは女が花に百合に生まれ変わったってことなんだろうか。
僕的には百年待っているのが出来なくて、百合に浮気したように思えたので、漱石の夫婦がどんな最期を迎えたのかは知らないが、
自分の妻が死んで、また生まれ変わってきますよ、会いに来ますよと言ったが、漱石はそれが我慢できず、若い女に恋をしたということなのかと思ったが、どうなんだろう。
でも途中まで凄く良かった。麻枝准っぽさが凄いあって、宮沢賢治ほど幻想的ではないけど、日本の美しさの極地だったらこのくらいなのかなと思った。
でもまぁこの程度か、と思ってしまった部分もあって、これ以上のものは書けそうな気がする。
しかし、純文学として美しく描かれたこのホントとも嘘とも言い難い不思議な感じは、流石名だたる文豪の傑作と言われただけある。それに凄く読みやすかった。
造語とか星の破片って一体なんだってとこはあったが、突っかかる所もなく、難しくて調べないと進めないということもなく、するっと物語が入ってきて、あの嫌いだったぼっちゃんとこころを書いた人とは思えないくらいと読みやすかった。
夢十夜ということであと、九夜あるので、楽しみにしたい。
途中ホラーっぽい要素も垣間見えたところが凄く技巧を凝らしている気がしたが、全体的に技巧で書いたという感じがしない。
もっと自然に、多分本当にこんな感じの夢を見て、それを小説に成り立てたような気がする。あと女の最期の辺りが、とてもえっちだった。
えっちさを感じられる文章というものは良いものだ。女はえっちなんだけど、男がちょっと頼りなかったな。
その点だと、CLANNADに出てくる機械仕掛けのロボットの方が、献身的で好みだ。
女に言われるがまま穴を掘って埋めて待っているのは、少しおつむが足りない気がして、心情としても拙いような情けないような感じがしてしまっていけない。
ただ頭が良ければいいのかと言われればまた違うし、純朴すぎるのも却ってよくない。
女と過ごした時間なんかが垣間見えたら、この物語はもっと長くなってしまうし、『夢』という括りから逸脱してしまって、幻想的な感じが減ってしまう。
絶妙なバランス配分も垣間見えるからその点は素晴らしい技術だ。
無意識的に小説として成り立てるというバランス感覚が働いているのだと思う。思ったよりも知的じゃなくて助かった。
「百年待っていてください」という女心を考えると、凄く感慨が深い。
是非この部分を朗読する高校生は、感情をこめて漱石の描く女性像を想像しながら読んでほしいものだ。僕の小説のネタにもぜひ使わせてもらおう。
しかし、高校生がこの恋愛観を持つことは果たして吉なのか?
これほどのものを初心な時に憧れたら、後の恋愛が大変そう。男というものは、女というものはと考えるいいきっかけにはなるだろうが、インテリになってしまったら馬鹿にはなれない。
夏目漱石がいいのぉって言っている女子を見たことがないので何とも言えないが、漱石には漱石の恋愛観があって、それに影響を受けることは必ずしも良いとは言えない気がする。
まぁ、漱石だけを読んでもしくは色々読んで、やっぱり漱石が良いのぉと言っている人がいたら結構ヤバいと思う。
漱石の愛に少し異常性を感じるわけで、純愛という名の毒だと思うからだ。自己愛という毒に酔っている気がする。
ここまでのものを書けたのは確かにすごいが、それだけにその高い位置に行ったことで、他人から見あげられる存在になってしまっている。
そういう点で言えば、太宰や宮沢賢治の文章の方が等身大の自分を書いている気がする。天才というより秀才という感じ。色々試してみたけど、
最後にはこの境地に達しましたと言う感じがして、ずば抜けたセンスは感じない。全てが80点くらいで収まっていて、平均点は高いんだけど、突飛するものがない感じがする。
それでも研究するには問題なく考えさせられるところがあり、これが冒頭の一夜目というのは、この先どんな夢(物語)が出てくるのか期待を禁じ得ない。
良い文というのは童話っぽさを垣間見る。今、川端康成の『雪国』を読んでいるが、インテリ層向けな頭の良い文で凄く気に食わない。
漱石はもっとインテリだと思っていたので、こんなに手に取れる文を書くとは思わなかった。文豪は短編でこそ光るものがあるのかもしれない。
~六夜~
面白かったんだけど、二番煎じでやることなのか?と思ってしまった。
まぁ、意味はあったんだろう。創作に携わる人間だったら、誰もが自分の作る作品が「最初からそうあるべき姿」であることを考えてしまう。
彫刻だったら物理的に形が見えてくるが、小説の場合だとあるべき言葉、然るべき展開、決めの台詞なんかがビタビタっとハマる時がある。
漱石は小説ではそれが出来ても、彫刻でやるのは、やはりその道を極めた人でないと無理だと言っている。
それもその時代、自分が偉業と認めるようなものは、自分の時代には成し得ることは不可能と言っている。
端的に物語を説明すると、自分(漱石)が夢の中で、鎌倉時代に仁王像を彫った運慶という彫刻家が、明治時代の今、新しい仁王像を彫っているのを、見物人と一緒に眺めていた。
「よくあんなに迷いなく彫れるもんだなぁ」と独り言を呟いたら、見物人の一人が、
「あれは自分で彫りたいイメージがあって彫ってるんじゃない、木の中に既に仁王の形が埋まっているのさ。それを土をどかして石を掘り出すように、木から仁王を掘っているのさ」と言った。
それを訊いて、だったら自分でも彫れるかもしれないと家の樫の木の手ごろな材料があったから、鑿と金槌で仁王を彫ってみた。
しかし彫れども彫れども仁王は掘れない。どうしてだろうと考えた時、明治の木には仁王は埋まっていないんだと納得した。
という話だ。いやいや、そこ時代のせいにしちゃうのかいって思ったけど、確かにそれは納得できるかもしれない。
ご神木みたいのは樹齢が1000年とかあるものが多いのもあるし、その方が作家としては都合がいい。
作家というものはその時代にしか自分の作品を作れない。
世にはSF作家などもいるが、それは未来からやって来たかのように見せているだけで、その時代に見聞きした知識を総合して自分の想像力を100倍にして未知の部分を創造したに過ぎない。
それでも凄いことだし、科学が発達するまではSF小説というジャンルはファンタジーの中に隠れていた。
漱石がSF小説を書かなかった(書けなかった)理由も、時代のせいだと言ってしまえば都合がいい。
それでも未知のものを追い求めるから創作というものは面白いのであって、それが自分の中で新しくなければ、僕の場合創作意欲がなくなってしまう。
すでにある形を未来に追い求めるという矛盾があるからこそ、創作というものは大変だし遣り甲斐があって、崇高なものなのだと思う。
一夜と同様、スッと物語が入ってくるこの心地よさは、まさに書くべきものを漱石が書かされているからだと思う。
それでもそれ以上のものを書くのだから、作家というものは先生と呼ばれ、尊敬されるものだと僕は思う。つまり置きにいってはいけないということだ。
自分の創作力を振り絞って出た、結晶のように密度の濃い一滴の雫を出すために、僕達は今日も創作に励んでいると思いたい。
これは僕の願いであって、呪いでもある。そんなことに縛られているからいつまで経っても作品は完成しないし、それを探し続けているから、僕の創作活動は終わらない。
漱石は明治の木なら何が掘れるかを確かめるべきだったのだ。
現代アートで仏像のような崇拝されるような神々しいものが出てこないのもこの辺を言い訳にしているからかもしれない。
その言い訳があるから、現代には現代のアートがあるんだ!と開き直っているから人は現代人でも理解の出来ないものを作り続ける。
テンプレートが一番大衆の心を掴むことはわかっていても、それは古代の偉人たちがやり尽くしてしまったから、奇をてらうしかないのかもしれない。
王道と鬼道を交互に流行らせ、今また真の王道を見せる時が来ていると思う。
まぁ僕としては王道で勝負するしかないから、いつでもそう考えているんだが、このチャンスに乗じて売れることも夢見つつ、創作活動が出来るのは幸せなことだ。
僕は誰にも発見されないまま今の創作が終わってしまって構わないと思っている。
それでももし見つけてくれたのなら、そっちの業界で力を尽くしてみたいとも思っている。創作がこれほど一般的になった時代もないだろう。
限られた人しか楽しむことの出来なかった娯楽だけど、それを誰かが見て感動して、それが評価や対価に変わったら、遣り甲斐は今よりもずっとあるだろう。
今は誰もが自分なりの仁王やダビデ像を自作して部屋に飾っている時代だ。
一生に出来ることはそう多くないかもしれないが、人生は長い。何が起こるかわからないというほど、未知ではないが、
自分がやるべきことをきちんと見つけられて、それを掘り出せたなら、仁王やダビデより凄く評価されることは無くても、幸せは得られると思う。