柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

子規句集(4) 正岡子規

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岩々のわれめわれめややまつつじ

 

 

どうしてこんなに簡単に写生句が作れるんだろう。

 

確かにそりゃそうだろうけど、それだけじゃ何か足りない気がしてしまって、あーだこーだ工夫をしてしまうのが人の常なのではないだろうか。

 

おー岩の割れ目に山つつじが生えている、割れ目は一つじゃないな、お、これは俳句になるじゃないかと考えた……わけじゃないよな。

 

もっとシンプルに、もっと簡単に考える。むしろ考えるより先に感じる。

 

それでも草木の名前を知っておかねば俳句は作れない。自分が見た景色が美しいなら俳句が作れるのだろうか。美しいとは何なのだろうか。

 

ドツボにはまろうとしているが、美しい瞬間というのは誰にでも必ず訪れる。いつもより早く起きた朝や夕暮れのバス停、キラキラとした水の飛沫、汗の吹きだす夏の熱さ、読んだ本のちょっとした感想。

 

世界はまだまだ美しいものに溢れている。その欠片を探すのが人生の旅を鮮やかに彩る。

 

つまらないと嘆くより、少し勇気を持って新しいことを初めてみる。

 

でも失敗のある人生の方が味深いとしても、やっぱり失敗は怖いし、してしまった時、後悔がある。

 

出来ることだけしていたいという気持ちと、それだけでは満たされない何かのために人は行動を起こす。

 

このままじゃいけないという焦燥感があるんだと思う。

 

最近、このままじゃ自分は袋小路に入ってしまって、本当に身動きが取れなくなると思う一方で、今のままで十分生きていられるなら、それでいいのでないかと諦観する気持ちが交互に来る。人間今時分に出来ることをするしかない。

 

生きているのにさえ迷惑が掛かってなければそれでいいのかもしれない。

 

自分の周りが幸せならそれでいいのかもしれない。でも、経済圏で生きている友人や兄とは遠く隔たりが出来てしまった。

 

自分たちは頑張っているのに、何を怠けて楽しそうに過ごしているんだという妬みがあるのだと思う。

 

それでも事情は分かっているから敢えて口出しはしない。口出しをしなくなるからコミュニケーションが取れなくなる。そうなったらお終いだ。

 

話してお互いを理解し合うのが人間なのに、黙って勝手に黙認して自己完結する。そうすれば誤解は誤解じゃすまなくなる。

 

分かり合えない辛さばかりが目に見えてしまって、それを解決しようにも会話がなければ何も前には進まない。関係を断つことは経済的に豊かになった証拠なのだろうか。

 

お金で割り切れる関係であるのが豊かということなら、僕は今のままでいい。

 

今以下になることももちろん考えられる、来月を最後に失業手当の支給はなくなる。

 

そうなってきた時、障害年金だけでやっていかねばらない。貰えずに何とか日々を過ごしている人もいるのだから、やり様は幾らでもあるのだろう。

 

ただ、僕も経済圏の生活をしていた身で、お金を使うことは好きだ。それを好きに使えなくなるとしたら、羽をもがれたような思いだろう。

 

それでも乏しくなってこそ侘び寂びの世界がわかるかもと少し期待もある。山つつじを見に行くくらいには自由であると良いんだが。

 

 

下り舟岩に松ありつつじあり

 

 

これもつつじの写生句か。

 

保津峡の鵜飼ヶ浜の情景を詠んだものかとも言われているらしいが、昔は普通に群生していた山つつじが、今はハイカーや鹿の食害によって植樹しなくては景観が保てないそうだ。

 

人間が手を加えないと景観を保てないというのは何とも悲しい気持ちになる。

 

人間が反映していくことは自然を征服することだと、倫理で勉強したが、その昔から環境汚染について言及している人はいても、人間は自然を破壊することを止めない。

 

僕たちが普通に暮らしているこの普通を保つためには、自然を破壊しなければならない。それは畜産業の農家の方が豚や牛を捌いて、その捌いたものが肉となってスーパーに並ぶのと似ている。

 

結局自分が自然を破壊している自覚がないからそういうことが出来る。

 

必要にしている人がいるから供給するというのが既に悪なのかもしれない。

 

必要としないように、自分たちだけで賄えるように工夫するのが正しいのかもしれない。

 

ただそれでも、少しのめんどくささからレジ袋を貰うこともあるし、着けてくれるならと割り箸を何膳も貰ってしまうこともある。

 

エコロジストでいることは何か気恥ずかしい気もしてしまう。エコに生きたとしても、それによって環境がどうなったかの結果は見えづらい。

 

そもそも良い結果をもたらしたことがないから判断のしようがない。

 

ヒューマニズムを唱えた時点で、人間には他を破壊し死滅させるまで使い潰す権利があるのかもしれない。

 

ダーウィンの進化論が、最適者という考えを生み、だからこそ人間には、自然を破壊する権利(義務?)があるのだと主張する人がいるということを知ってびっくりした。

 

論を持って論を作るというのは、論点をずらしている気がするし、本質から逸れている気もするが、そういう多様性が人間の繁栄には繋がってきたのだろうし、一概に悪いとは言えないが気持ちはよくない。

 

所謂人の尻馬に乗っかるというやつだ。人間のみが理性を持って生きている。

 

感情や知性は他の生物にもあることが証明されている。もし人間ではない理性を持つ他の生き物を前にした時、人間はどう振る舞うのだろう。

 

ファーストコンタクトもので良く書かれる、人間の進化の促進のために異星人はやってきたり、反対に資源を目当てに侵略してきたりする。

 

そういうSFを見るたびに、人間というのは世界で独りきりの寂しい生き物なんだなと思う。

 

人間同士でも解りあうことは出来なくて、なのに独りでいることはこんなにも辛くて、完全な繋がりなんかなくて、レイプは起こるし、虐待も止まらない。

 

キリストが唱えた愛という抽象的な概念のせいで、世界が不安になっている。

 

愛を技術として素因数分解せねばならない。他者と働く「わかりあえなさ」から始める組織論や4タイプ診断のように、人の内面の分かり合えなさを分析して解明して最終的には諦めるところまで心を落ち着ける技術が必要だ。

 

まずはお互いが川に隔たれていて、対岸にいることを分かってからの、歩み寄りだと僕は思う。遺伝子に違いがあるんだから価値観も欲求も違って当然だ。

 

その上で自分の指針となる人、好敵手、助言をくれる仲間、自分より劣る未発展の人とに分け、その隔たりをなくしていくのが、人間の関係性だと思う。

 

 

涼しさや行燈消えて水の音

 

 

清涼感のある一句。行燈ということは夜なのだろう。少し薄気味悪い気もする。

 

ただ行燈があるということは、どこかの屋内なのかなとも思う。

 

ネットこの句を調べた印象もあって、京都のどこか川の流れが見下ろせる二階席で会食かなにかしているときに、ふと行燈の明かりが消えて、川から魚が跳ねた音やさらさらと流れる音が聞こえたという句なのだろうか。

 

多分違うな。水の音で〆る句で有名な句といえば、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」だが、水の音を下五に持ってくると、どうしても比較の対象になってしまう。

 

そうなってくるとこの涼しさやの子規の句は少し弱い。少しどころじゃなく寂びが弱い。どちらかというと涼しさがメインになっているので、俳句としては季語がメインになっている句が正しい句と言われるように、ちゃんと成り立っている。

 

それでも古池やの句の蛙に比べると、厚みも感触も違い過ぎる。実体のある古池やの蛙の句と、涼しさやの実体のない風を感じる句とでは本質がそもそも違ってくるのだろうが、それにしても涼しさの実体が薄すぎる。

 

感覚でものを言ってしまえば、ゾクゾクする感じがない。涼しさが行燈を消した必然性というのがない気がするし、そこに水の音を入れなければならなかった必然性もあまり見出せない。

 

おどろおどろしくするなら霊的な言葉の欠片みたいなのがないと、想像できないし、清涼感をメインにしたいのであれば、行燈が消えることの是非がよくわからない。

 

振り切れていない感じがするから印象が弱いと思ってしまうのだろうか。

 

そのどちら、もしくはそれ以上の何かを考えさせるのであれば、成功している。何が行燈を消したのか、涼しいというプラスのイメージをどこまでマイナス方向へ引っ張るのか、読み手は考えなければならない。

 

子規のイメージから、行燈が消えてびっくりしたと書いたはずがない。

 

行燈の油に漬かる芯が燃え尽きたその時に、涼しさと水の音を感じていたという情景なんだろうか。

 

やっぱり何度読んでも、水の音の部分で古池やの下五と比べてしまう。

 

そのぐらい水の音で〆る句は慎重にならざるを得ない。

 

「水の音」はピチョンだか、ザーザーだか、ブシャ―だか様々ある音の形によって、俳句の深い部分にまで食い込むことが出来るキラーワードだ。

 

誰もが知る名句として君臨するそれを使いこなすことは難しい。

 

しかし、俳人を志すものなら一度は試みたい高いハードルだ。僕も「水の音」を使って、自分なりの究極の一句を作ってみたいと思う。