柳 真佐域ブログ

好きなものを好きなだけ語るのだ

幸せになる勇気

f:id:neocityproject:20200814164655j:plain

嫌われる勇気の続編にて完結編でもある『幸せになる勇気』。

 

今回は前回の轍を踏まないように、気になる箇所をメモしながら読んだわけだが、一日で読んだわけでもなかったし、集中も欠いていたから前回のような激しい感動はやってこなかった。

 

だから、終盤の雲が晴れていくかのような青年の気持ちがよく共感できなかった。

 

全体の印象としては、この世に生まれてから何となく抽象的に思っていることの言語化がされ、問題が明白な事実になった印象があった。

 

今回は結論から書いてみよう。幸せになる勇気とは、自分を愛し、他者と愛を築き上げる決断をする勇気。

 

もっと言えば、「私」を消し去り、私たちの幸せを築き上げる勇気だ。嫌われる勇気とアドラー心理学を哲人に教わった青年は、三年後中学校の教師に転職をしていた。

 

その際に、彼はまだ未成熟な彼のアドラー心理学を教室で実践したものの、彼は子供たちに洗礼を浴びることになる。青年は思った。アドラー心理学などただのまやかしに過ぎない。

 

完壁な哲学のように思えて実情、現場では何の役にも立たない机上の空論だと。なんて考えを植え付けてくれたものだと、再び哲人の元を訪ねるところから対話は始まる。

 

アドラー心理学があれば万事が上手くいくわけではない。アドラー心理学はいわばそういう見方もあるというフィルターのようなものだ。アドラー心理学に即効性はない。

 

自分の年齢の半分の時間をさらに足した状態でアドラー心理学は大成するとも言っていたのに。

 

何故ならばアドラー心理学は他者を信じ、自分を信じることが前提になっている哲学だからだ。

 

そこには哲学の何たるか、愛の何たるかを知らなければ、アドラー心理学は機能しない。それにアドラー心理学というのは哲学の第一歩目であり、そこから自分と自分の周りとで更新していくものだからである。

 

青年はアドラー心理学の叱らない褒めないを実践してみたところ、クラスは荒れ放題になり、アドラー心理学の無力さに打ちひしがれた。

 

そしてアドラー心理学は所詮出来損ないの宗教であり、それでは現代教育は成り立たないと哲人に問うた。

 

哲人は哲学と宗教の違いについて答えた。哲学とは、真っ暗な中細い竿の上を一人手繰るように進んでいくもの。

 

宗教はそこで途中で怖くなり竿から降りて、象徴となる物語に心を落ち着けてしまうことだと言った。哲学は常に考え続けなければならない。

 

まずそこの否定があり青年は、そんな理屈では私の怒りも悩みも収まらないと顎を噛みしめた。教育者となった青年は、自分が学んだアドラー心理学でこそ子供たちは真に学ぶ姿勢を見せると思っていた。

 

しかしその実、叱られないなら遊び放題だと子供たちは教室で縦横無尽に暴れまわり、青年に対して挑戦的な態度をとってみたり、あるものは徹底的に無視し、あるものは自分には勉強の意欲がないと初めから諦めている者もいた。

 

青年は悩み、そして他の教師と同じように叱り飛ばして子供たちに言うことを聞かせようとしたが、初めに舐められた時点でもう取り返しがつかなくなっていた。

 

そのことを哲人に話すと課題の分離がしっかりできていないことを指摘された。課題の分離を突き詰めなければ教育は成り立たない。

 

そして教育者とは他人に物を教えるだけではなく、カウンセラーの役割があることを教えた。

 

青年はあの荒くれ者たちのカウンセラーになれだと!と激高したが、哲人はしずかに教育者は子供たちのこんがらがった心を再教育して解きほぐす役割があると言った。

 

各家庭、何かしらの問題があるだろう。片方しか親がいない、親が不仲、愛されていないと感じる、兄弟間に差別がある。

 

そんな子供たちの人生の大半の時間を過ごす家庭でのトラブルを教育者はカウンセリングする必要がある。そして子供たちを自立へと導いてあげなければならない。

 

家庭の他に初めて他者と過ごすことを学ぶ場所が学校なら、学校は他者とどう関わっていけばいいかを学ぶ場所でもある。

 

青年はそんなことはわかっているが、子供たちは先ず学ぶ姿勢というものが出来ていないのだと糾弾する。

 

すると、哲人は教える立場の人間が教えられる側の人間のことを敬いなさいと言った。青年は、仰天する。

 

まずは相手を尊敬するところから人間関係は始まるのですと、哲人は重ねて言った。そりゃ相手が尊敬できる人間だったら僕だって尊敬しますよ、でも相手は子供なんだ何を尊敬しろっていうんだと青年は言う。

 

ではあなたは何をやっても認めてくれない人から指示なり命令なりされた時、素直に従いますか?と哲人は言う。まずは人間レベルで相手を見る。

 

相手に関心を持つことから尊敬は始まる。尊敬とはその人がその人らしくは成長、発展していけるように気遣うこと。

 

あなたの言う尊敬や憧れは恐怖で在り、従属であり、信仰である。まずは相手を尊敬して、相手を認め相手に勇気を出させることから関係は始まる。

 

あなたが大声で叱りつけて恐怖を与える権力者になったとしても、尊敬と愛は強要出来ない。青年は喉を詰まらせた。

 

大声で叱りつけても嵐が去っていくのをただ待っているのが子供というものだ。尊敬は強要出来ない自発的なものだからまずあなたが彼らを尊敬するところから始めないと。

 

子供たちがあなたからみれば低俗な遊びをしていようが、関心を示すところから対話は始まる。

 

一緒に遊んで泥遊びでもしろと言うのか!教育はどうなるんだ教育は!出来ない者を出来るようにするのが教育だ!あなたは教育の現場に立っていないからそんな机上の空論が言えるのです!と青年は激しく激高した。

 

哲人は前回話した共同体感覚についての話をした。他者の目で見て、他者の声を聞き、他者の心で感じる。まずは私がこの人と同じ種類の心と人生を持っていたらと考える。

 

共感する訳です。共感は技術です、やろうと思えばできるもの。それとあなたは尊敬を仰ぎ見ることや媚を売ることのように考えているようですが、尊敬とは対等に見るということです。

 

そして尊敬を教えるのも教育です。(暴れる)彼らは尊敬の仕方を知らないのです。そんな馬鹿なと青年は打ち震えた。

 

変わることは易くない。いままでの自分を二度と出て来れないように墓に葬り去り、新しく生まれ変わることだ。

 

話は再び目的論について語られた。今を肯定するために不幸だった過去も肯定する。

 

このことは青年が言い放ったたとえ叱られてその時は恨み節に思おうが、数年後あの時叱ってくれてありがとうと言ってくれる生徒がいればいいと言い返した節に戻ってくる。

 

その生徒は今を肯定できたからこそ過去のトラウマを克服できたのだと。哲人は言う。この世に過去は存在しないあるのは純粋に積み重なった今だけ。

 

歴史は権力者によって改竄された物語だと。我々だって、常に今の自分を正当化するように物語を編纂している。

 

過去をどう見るかは今の自分によってしか決められない。辛かった過去を嘆き、卑下している人は悲劇に酔っているだけだと。

 

かわいそうな私、悪いあの人の他に第三の選択としてこれからどうするかがある。前者二つの話をしていても、一向に話は前に進まない。

 

その時、これまでどんなに辛い思いをしたのかを知るより、今のその人を知るだけで十分。

 

話は戻って叱ってはならないならばルールや法は必要ないか、いや、民主的なルールが必要だと哲人は言う。

 

子供たちの大半はそれが罪と知らなくて法を犯す。

 

ここで哲人は問題行動には5つの段階があることを教えた。第一段階、称賛の要求とその裏返しに特権的な地位を要求している。褒めてくれる人がいるから適切な行動をするのは、罰を与える人がいなければ不適切な行動をとるとも言える。

 

だから褒め過ぎてはいけない。アドラー心理学でいえば認めることはあっても褒めてもいけない。そんな子たちには、尊敬によって特別でなくても価値があることを教えるのが特効薬。

 

第二段階、注目喚起、目立って特権的な立場を得たい。道化的な立場をとり、いたずらによって目立つ。

 

たとえ叱られることがあったも、無視されるよりずっといいと考える。

 

第三段階、権力争い、反抗(相手との力比べ)と不従順(徹底的な無視)。ここで叱責をすると同じ土俵に立つことになる。

 

第四段階、復讐、私を認めてくれなかった人に愛の復讐。相手が嫌がることをする、そこまでして注目して欲しい。

 

自傷やひきこもりは自分の価値を貶めて、自分がこうなったのはお前のせいだと訴える。不潔になったりグロテスクになったりするのも復讐行為。

 

第五段階、無能の証明、自分には何の能力もないから放っておいて欲しいとする無気力状態。

 

ここまでくると手の施しようがない。第三段階より先に踏み込ませないためにも教育者がいる。

 

問題行動は誰もが特別でありたいがための行動。だから叱られることはある種の達成感を生んでしまう。

 

喧嘩が起きたら何故仲良く出来ないか話す。そのなかで叱る際、暴力に訴えるのは何処までもコストが低い安直なコミュニケーションをとっていると思うこと。

 

叱る行為は、コミュニケーションの手間を省き相手を屈服させるために行っている。たとえ怒りでなく叱っているとしても弾の入っていない(だろう)銃を突き付けているのと同じ。

 

すると、叱責された子供たちは怒るしか能がないのかと軽蔑する。未成年は自分の責任で物事を決められない。

 

そんな自立できない未成年たちに、自立がいかに危険か忠告するのは、自分の支配下に置いておくためである。

 

子供を支配下に置き、冒険させないのは自らのリスクマネジメントのためである。だから自らの保身ばかり考えるような人間にしないために、自立を促す。

 

カウンセリングで、先生のお陰で治りましたと言われるのは、カウンセリング失敗。

 

だから教師とは貢献感の中に幸せを見出す寂しい職業。理想論はいい!現実は競争社会だ!それで良いものが生まれ、劣悪なものが淘汰される!と青年は憤慨する。

 

だが哲人は競争が始まった時点で足の引っ張り合いが始まるという。

 

協力原理で運営される共同体ならば一人のマイナスはみんなのマイナスだと考える。縦ではなく横の関係に基づく民主主義の心理学こそアドラー心理学

 

人間は誰しもが生まれながらに劣等感を抱いている。寝返りが打てない、歩けない、話せないなど周りの大人たちは出来ていることが自分が出来ていないから、子供は劣等感で出来ているといってもいい。

 

その中で育まれた文明は人間の弱さを補償するための産物に過ぎない。全ての人には共同体感覚が内在し、それは人間のアイデンティティと深く結びついている。

 

だからこそ感覚として共有が出来る。孤独は社会的にも生物的にも死につながるから所属感を持たせることが大事だと。

 

しかし、所属感は他者からの承認欲求では埋まらない。承認欲求には終わりがないから自らが自らを承認することが大切だ。

 

教師の役割として、家庭の問題は介入し得ないから現時点で目の前にある問題がわたしの問題として捉えること。

 

家庭が問題のある家庭でも、学校という場に来てまで問題行動を起こすということは、何かしらの私に対する不満があるということだ。

 

アドラー心理学は人生の劇薬だ。一度知ってしまえばアドラー心理学を信じて前に進むか、知っておきながら捨て置くという決断をしなければならない。

 

承認欲求についてまだ話すと、他者からの承認欲求は依存に繋がる。メサイヤコンプレックスという言葉がある。

 

他者の救世主足らんとする欲求だ。カウンセラーは患者を救うのではなく、一人の友人となることを考える。

 

学校とは子供が最初に交友関係を結び、共同体感覚を掘り起こしていく場所。仕事の関係は信用。交友の関係は信頼が必要。

 

人類は分業することで生存した。狩りが得意な者、狩りの道具を作る者、料理をする者と分業することによって弱さを補い合った。

 

我々は満ち足りた惑星に住んでいないのだから共に働き、協力して、他者に貢献すべきである。だから労働は善ではない。しなくてはならないものだ。

 

だから我々は他者と関係せざるを得ない。自分が劣っている点があるなら得意分野で貢献すればいい。そうすれば他者から認められる。

 

分業の理想は誰一人として犠牲にしてはならないこと。出来ないことがあって我慢するより、その人は得意分野で活躍してもらう。

 

その中で、純粋な利己心の組み合わせが分業を成立させる。純粋な利己心とは、本当の意味で自分の為になるもの。それは自己中心的な考えではない。

 

分業はどの仕事も等価値であり、誰かがやらなければならないことをやっているだけ。

 

アドラー心理学では皆を束ねるリーダー的な社長も、工場で8時間単純作業しているアルバイトも等価値と考える。

 

どんな仕事をするかより、どんな態度で取り組むかが大事。その中で、正義に酔いしれた人は、自分以外の価値観を認めることが出来ず正義の介入を始める。

 

仕事をする時、我々は見知らぬ他人に一定の信頼を置いている。尊敬と信頼は同義。まずは先に信じる。

 

意見の正しさではなく信じてくれる人の言葉を人は聞く。

 

「汝隣人を愛せよ」の原文は「汝の隣人を、汝自らの如く愛せよ」

 

自己中心的な人は絶え間ない不安に晒されているからこそ自分にしか関心が向かない。

 

アドラーは軍医として兵士の精神を治療して前線に送り返していた。その日々は囚人のようだったと言う。世界平和のためにはまず自分の家族を大切にするところから。

 

愛は築き上げるもの。自然発生するものではない。落ちる愛は征服欲と変わりない。手に入れてしまえば愛が覚めてしまう。

 

愛は二人で成し遂げる課題(タスク)。二人が何を成し遂げるのか、それは幸福になる生。二人で他者貢献すると言ってもいい。

 

子供は弱さによって世界を支配している。自立とは自己中心性からの脱却。

 

愛されるためのライフスタイルはいかにすれば世界の中心に立てるかと模索する自己中心的なスタイル。人は愛することで自立できる。

 

末っ子は家族とは全く別の道を選ぶ。長子は次子が生まれたことで親の愛を奪われたことから過去崇拝者となる。

 

第二子は革命思考にある。一人っ子は父親を敵視してマザコンになりやすい。次子は長子との競争に勝ち、親の愛を独占しようとしている。

 

出会いがないと嘆く人は、可能性の中に生きている。出会いはそこら中にある。いかなる人でも愛せるという前提に、アドラー心理学では運命の人は存在しない。運命とは自分で築き上げるもの。

 

運命の下僕になってはいけない。幸せになりたいと楽になりたいは違う。全ての出会いと全ての対人関係はただひたすらに最良の別れに向けた不断の努力を傾けるべきだと。青年と哲人はそこで別れることになる。

 

青年は友人でも師弟関係でもなく同じアドラー心理学を学んだ者として哲人の伴走者となった。アドラー心理学は報われない者に対する救済でもあるが、それにしては一人で修学するには厳しいものだった。

 

その厳しさに実感はない。僕のアドラー心理学は今から始まったばかりだからだ。他人を見下さず、横の関係を築くことが出来るだろうか。

 

信用ではなく無条件の信頼を寄せることが出来るだろうか。全ての人を対等に見ることが出来るだろうか。

 

僕が憧れる岡田斗司夫や活躍し競争の中で生きているホリエモンなどはこのアドラー心理学をどう思っているのだろう。

 

アドラー心理学は学んだ人とでよく議論した方が良いのだが、雲をつかんでいるように実感がなく、何を話していいかもわからない。

 

それは実際、問題に直面していないからだろう。それでも自分の周りに全く問題がないなんてことは無い。

 

それを、アドラー心理学を頼りに解決していくのは何か間違っている気がする。アドラー心理学を修学し、自分自身の哲学としてこそアドラー心理学は現実と織り合わさる。

 

僕はこんなに赤線の引くところの多かった教科書を知らない。それだけ大切なことを言ってくださったのだろうが、多すぎて内容が入ってこないのも事実だ。

 

よく読んで自分の中に落とし込まなければならない。そのためには人生のタスクをクリアしていかねばならない。

 

少し青年に置いて行かれたような寂しさがある。アドラー心理学を実践した彼だからこそ哲人とあそこまでの対話が出来たのだろう。

 

幸せになる勇気。愛を知り、愛を築く相手に、運命はなくともそこは選択の権利があると考えてしまうと、愛を深める義務も生まれてしまう。

 

何か霞が晴れたような新たな頂上を見据えるのに霞みがかる山を見つけたような気もする。アドラー心理学がそれまであった価値観を打ち壊したのは事実だ。

 

それをどう受け止め、何を実践できるか。救いにもなれば劇薬にもなるこの哲学を学び続けていくことを決めなければならない。

 

自分の周りにこの哲学を知ってもらうのも大切だろう。実感のないままに書く感想程身にならないものはないと思った。